更新时间:2013-06-05

言叶之庭:耳朵里的世界

在文字没有被创造,画面无法被呈现于屏幕的最初,人们能感受到的东西是——声音。

第一次看它的时候当然是被美得一塌糊涂的画面惊到。安静地看完46分钟左右的短片,虽然也没觉得哪里不好,但总觉得和当初期待的不太一样,或者说没有出现太多自己期待的东西。想着:
「言の葉の庭」,不如叫「言葉の要らない庭」来得切题——主角在小亭子里并没有说太多话,无间断流曳的钢琴音符时而急促时而和缓,气氛倒是营造得很不错;
或者叫「雨の庭」——因为自始至终是以雨为主线贯穿整个故事的吧;
总之和「言葉」关系不大,除了女主角的设定是古典文学的老师,家中的书橱中摆了一壁令人歆羡的古典书籍以外,跟古典也没有太多牵扯。而排除这些因素,倒是被女主角那句「どうせ人間なんてみんなどっかちょっとずつおかしいんだから」戳中内心。

转机大概也是因为这句话吧,没有特别想听的歌,心里某个地方或许又被这部片子勾着,于是把这部片子当抓马当BGM不那么认真地听起来,听了两遍后发觉,这部片子本身独白比较多,整个气氛比较安静,简直就是听抓时我最喜欢的那类型啊。。(→声控无误)
以及这部片子也很适合用来听。
一些观看时没注意的细节,重听时才发觉眼睛在某种程度上对感受的蒙蔽。当然这个我自以为是得出结论的样本并不具普遍性,拿其他很多电影当BGM也许也能有类似的感受——总之当我思い込み好了。


清脆的鸟鸣、水流声、新干线在铁轨上奔跑的轰隆声、地铁站里的广播、独自走路时细碎的脚步声、闹钟的滴嘟声、打开水龙头时的啪嗒声;接着又有微风吹动树叶的沙沙声、渐渐逼近的雷鸣。回到家后电视机里天气预报员的解说、切菜时菜刀在案板上的咚咚声、炖锅里的食物翻滚着冒泡的咕噜咕噜、用刀子在吐司上抹黄油的黏腻声、兄弟俩聊起与年轻情人交往的母亲时清淡的玩笑话。
场景切换。
粉笔在黑板上鞋子的撞击声、手机收到新信息的提示声、相互致意的问候;两人在安静的亭子里做各自的事情时,男生手中铅笔在纸面窸窣的摩擦声、女老师临走时轻吟的和歌。
又一次相遇的问候、拉动拉链的刺啦声、分食便当时互开的玩笑、讲述梦想时欲言又止的犹豫;雨水从檐下瓢泼而落、天气预报中出梅的消息、女老师失望的心声、室外炎天中持续低吟的蝉鸣。
之后情节突变。
炸开的雷鸣、小雨转大渐成暴雨的过程、倾盆大雨铺天盖地而来、飞速奔跑的踩水声;回到家后赤脚走在地板上的声音、熨烫衣服时熨斗接触衣料的刺啦声、咖啡倒进水杯时的咕咚咕咚、鸡蛋磕在烧杯上、勺子碰触到碗壁时发出的轻声撞击.....
以及分散在全片各处的独白,贯穿独白时急时缓的钢琴独奏。

充满声音的世界。

于是这般,发现即使抹去画面,所有的声音、交谈的轻言、细节处的独白足够让我喜欢——或者不如说,正因为生活平淡,当它被捕捉、放大、呈现在你眼前耳边,才更让人觉着惬意欢喜吧。


听完几遍后简直爱上这部短片的氛围了,此外发现一些当时没注意的东西,想着一定有什么是被当时的自己遗漏掉的——即使文字和画面从眼前经过也没来得及进入大脑,在一时的兴奋中被弱化的全局视线——于是鬼使神差又翻回官网看了新海诚那篇关于影片出发点的小文章。(http://shinkaimakoto.jp/kotonoha)

文章大致是说,这个世界在文字诞生以前只存在口头语言;直到万叶时代汉字传入日本,古人便用汉字一一对应大和语言的发音——例如“春”写作“波流”、“菫”写作“須美礼”——以这样的形式,渐渐将日文中汉字的使用固定下来。而在早期,“恋”在日文汉字中写作“孤悲”,意为孤独而悲伤;万叶时期的古人们便是这样看待“恋”这种现象的。而“恋爱”这个词是近代时期由西方传入的概念——从前在日本并没有恋爱这种形容,有的只是“恋”而已。
里面还有这样一段,当时我的确看到却因为自己有所侧重的期待而放在次要位置没仔细去想的部分:

【本作「言の葉の庭」の舞台は現代だが、描くのはそのような恋───愛に至る以前の、孤独に誰かを希求するしかない感情の物語だ。誰かとの愛も絆も約束もなく、その遙か手前で立ちすくんでいる個人を描きたい。現時点ではまだそれ以上のことはお伝えできないけれど、すくなくとも「孤悲」を抱えている(いた)人を力づけることが叶うような作品を目指している。】


反复将这段文字读了几遍,影片后半部分男生冲着追来的老师吼出的那番话渐渐在心里高亮起来。(其实第一次看也稍微被几句话戳到了)大声指责她明知两人是师生关系却不道破、气愤她一味打听男生的情况却对自己的事只字不提;激动的情绪终于行至顶点,男生脱口而出的那句“你就一直这样一个人活下去吧!”

比起我最初以为会是重点的古典元素或是语言、交流之类,导演想呈现的其实是——在情感升华至“爱”以前,人们心底怀抱的那份读作「こい」、但同时写作「恋」和「孤悲」的——孤独而悲伤的情感。
“并未和谁共拥一份爱,没有羁绊和约定,只能呆立于离“爱”最近却又十分遥远的地点无法向前的孤独个体”——这才是他的出发点。

昔々、「コイ」とは「恋」でなく、「孤悲」という意味であった。

想想女老师的性格其实还是很符合古典文学老师的设定吧:内向少言、心思细腻。像是常常独自到公园的小亭子里看书、和人交谈很少提起自己的事、对某些情况明明洞若观火却从不言明之类,被人欺负也不采取强硬手段回击(虽然真心是自己吃亏了)被不理解的人看作怪人...总是将一切情绪闷在内里不做声张,无论它怎样酝酿发酵、想挣脱、想倾吐,但最终也仍然想保持沉默地转身离开......慢慢走近、走进共鸣的内里。那些一个人静静在小亭园或图书馆消磨的时间开始与女老师翻开的书页重合起来。想到那句あんたは一生ずっとそうやって、大事なことを絶対言わないで、自分は関係ないって顔して、ずっと一人で、生きていけんだ,甚至开始代入自己的情绪。

但动画的片尾,在音乐和回忆的交织中,新海诚终于还是让女老师主动迈出了那一步——追下楼去,勇敢面对自己的内心。
于是我们看到了入野自由极富张力的演绎,从平静的”刚才的话,请忘记吧“到”你就一直这样一个人生活下去吧“,将情绪拨到最高点;再让老师奔下楼梯扑进男生怀里,终于倾吐了自己的内心。
如果不迈出第一步,什么都不会改变,什么也都不会发生——这大概这也是从《秒速》以来,新海诚的变化吧。

曾经是→少年用彩色笔在地图上延伸出越来越远的虚线;没有递出的信件和无疾而终的思念;最后呼啸的列车疾驰而过,熟悉而陌生的身影消失在轨道对侧;
现在是→一开始也只是轻松的玩笑和与无涉自身的对谈;但开始有了突破,至少有一个人先将内心的情绪说出口,接着引发一场情绪的海啸;到最后依旧置身不同的地点,但却有明确传达过的情绪、无限可能的未知结局;
从头至尾的柔缓到终于酝酿爆发的剖白——如果那就是成长。

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部分台本听写(水平有限,如果细节处有错欢迎指正w)




こういうことを、ニヵ月前高校に入るまで、俺は知らなかった。
制服の裾濡らす他人の傘、誰かのスーツに染み付いた二人の匂い、背中に押し付けられる体温、顔を吹き付けるエアコンの不快な風。
子供のごろ、空はもっと、ずっと近かった。だから、空の匂いをつれてきてくれる雨は好きだ。雨の朝はよく地下鉄には乗り換えずに、改札を出る。




「いまヤバイ女だと思ったでしょう。」
「いや。。」
「いいの、どうせ人間なんて皆どっかちょっとずつおかしいんだから。」
「そうかな。」
「そうよ。」




その日が関東の入梅だった。

「靴職人?」
「現実味のないことがわかってるけど、ただ靴の形を考えたり作ったりすることが好きなんです。もちろんまだ、全然下手くそけど、当たり前ですけど。」
それでもできるならそれを仕事にしたい、そう誰かに言ったのははじめて。

夜、眠る前、朝、目を開く瞬間、気づけば、雨を祈っている。
晴れの日には、自分がひどく子供地味で場所にいるような気がして、ただ焦る。仕事とか社会とか、あの人が普段いるであろう世界は、俺にはとても遠い。まるで世界の秘密そのものみたいに、彼女は見える。はっきりとわかっていることは二つだけ、あの人にとって、十五の俺はきっと、ただのガキだということ、そして、靴を作ることだけが俺を違う場所に連れていってくれるはずだということ。




この人は、いかにも優しそうに話す、まるで壊れる物に触れるみたいに。でも、息をするのも辛かったあのごろ、あなたは周りの声ばっかりを聞いていて、私を信じてはくれなかった。




この人のことをまだ何も知らない。仕事も年も、抱えた悩みも、名前さえも。それなのに、どうしようもなく、引かれていく。

まるで誰かがスイッチを切り替えたみたいに、晴れの日ばかりが続くようになった。あの子が授業をサボる口実が減ってよかった、なんて、いまさらは考えたりはするけれど、でも本当は露があけてほしくなかった。

(カップルが来て、話している)
晴れの日のここは、知らない場所みたい。


雨を待っている。

「鳴る神の少しとよみて降らずとも我は留まらむ妹しとどめば」
雨が降ったら、君はここに留まってくれるだろうか。そういう歌に対して、雨なんか降らなくてもここにいるよって答える。『万葉集』、教科書に載ってました。


私たち泳いで川を渡ってきたみたいね。


今まで生きてきて、今が一番幸せだ。


さっきのを忘れてください、俺はやっぱりあなたが嫌いです。最初からあなたはなんだか嫌な人でした。朝っぱらビール飲んで、わけのわからない短歌なんか吹っかけてきて、自分のことを何も話さないくせに、人の話ばっか聞き出して、俺のこと生徒だって知ってたんですよね、汚いですよそんなのって。あんたが教師なんか知ってたら、俺は靴のことなんかしゃべらなかった、どうせできっこない、叶いっこないって思われた。どうしてあんたはそう言わなかったんですか、子供の言うことだって、適当に付き合えばいいって思ってた、俺が何かに誰かに憧れたってそんなの届きっこない、叶うわけないって、あんたは最初から分かってたんだ、だったらちゃんと言ってくれよ、邪魔だって、ガキは学校に行けって、俺のこと嫌いだって、あんたは、あんたは一生ずっとそうやって、大事なことを絶対言わないで、自分は関係ないって顔して、ずっと一人で、生きていけんだ。


(这段真是。。 哎。。)


歩く練習をしていたのはきっと俺も同じだと今は思う。

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然后就是要嚎一句——ED太棒!(最近两天一直在轮。。orz

以上。
废了这么多话其实对剧情并没有太多想指摘的地方,毕竟我自己也是个不太会讲故事,抓不住主要矛盾和逻辑重点的人,于是就这样吧以及我并不是新海诚脑残粉orz。。云之彼端那部以前打开N次也没看完,追逐繁星的孩子也觉得不能再一般;倒是不得不承认处在忧郁的青春期时的确被秒速和星之声戳成了渣;但对这部,应该说是种莫名的情绪转变吧。倒不是一开始不喜欢,也不是现在特别喜欢(→到底是想怎样!)总之,就这样吧。→脑抽的节奏。。

祝大家看得开心,或者你们如果闲得没事也可以拿它当抓马或是做事时的背景音乐放来听,或许会有些不同的感受。



(2013.06.05)

言叶之庭言の葉の庭(2013)

又名:言语之庭 / 语言之庭 / Kotonoha no Niwa / The Garden of Words

上映日期:2013-05-31(日本)片长:46分钟

主演:入野自由 花泽香菜 平野文 前田刚 寺崎裕香 星野贵纪 井上 

导演:新海诚 编剧:新海诚 Makoto Shinkai

言叶之庭的影评