NOTEBOOK »NOTEBOOK» ブログアーカイブ » よく分からないが - KON'S TONE
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他人に影響を受けたことを隠さなくてはならない、という心理規制が私にはよく分からない。
いいじゃん、何に影響を受けようが真似ようが。
滅多なことじゃ盗作になんかならないんだしさ(笑)
オープンにしている方が心身ともに風通しがいいだろうに。
恥ずかしいことなのかね、それ。
二十代のようなチンピラや若僧ならともかく、世間にちゃんと認知され評価されているような人がそうしたことをことさらに隠すという意味が私にはうまく想像出来ない。
どんな表現物だって何か先行するもののアレンジでしかないだろうに。
オリジナル神話の信奉者がいまだ世に蔓延っているというせいもあるだろうけど、例の件については宗主国と植民地の関係も忘れちゃなんねぇべ。
考えるまでもなく、漫画やアニメや日本映画をちゃんと文化として評価しようという気配を感じるのは、先の大戦で仲間側だった国か直接殺し合わなかった国だという気がするもんね。商売になるかどうかは別の話だが。
相変わらずだよね、まったく。
ギブミーチョコレート。
ま、日本のチョコの方がはるかに美味しくなったけど。
2010年7月25日(日曜日)
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2010年7月26日(月曜日)
ナベケン
« よく分からないがパクリの語法 »
例の映画について書きたいわけじゃないのだが、ナベケンのことを思い出した。
いまやハリウッド御用達日本人スターと言えば渡辺謙さん。
日本人から見るとむしろ日本人離れした顔じゃないかと思うが、陰影のつきやすい顔だちが分かりやすさに通じて好まれるのかもしれない。三船敏郎も同じ傾向だろう。
逆にアジア系の女優なんかは表情が読み取りにくいフラットフェイスの方がエキゾチックに感じるのかも。日本で美人っていうと陰影がつきやすいタイプだと思うが、そのあたりは逆なのかもしれない。
要するにアジア人はアジア人としての役割分担がある、と。
三船とか渡辺謙は例外なのだろうか。というか男優の場合は例外しか取り上げられないのかもしれない。その他の日本人はきっといまだにメガネ出っ歯で十分、みたいな。
4年前、ハワイの映画祭で渡辺謙さんに紹介されたことがあった。
通訳か何かの女性が気を回したがったのだ。ブルンブルン!
「渡辺謙さんを紹介すればさぞや喜ばれて、彼の一生の思い出になるに違いない!」とかそんな感じ。
善意のブルドーザー。「オバチャン」の威力はオアフでも同じ。
紹介された私も困ったが渡辺謙さんだってさぞや困ったろう。
「ええ、どうも、今 敏というアニメーションの監督でして…」
「どうも渡辺謙です!」
どこの馬の骨とも知れぬ相手に、ワザとらしさの微塵もなく握手してくれたその様はスカッと爽やかな人という印象だったな。
大柄というわけでもないのに、画面では存在感があるし、3DCGみたいに陰影の強い顔の人たちに混じっても様になるし。
ハリウッドという夢の世界でもきっと負けないぞ、ナベケンは!
あまつさえ夢の世界を支配することだって夢じゃないさ!
で、何でナベケン呼ばわりかって?
そりゃあだって握手した仲だもん、一生ダチに決まってら。
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2010年7月28日(水曜日)
パクリの語法
« ナベケン株式会社KON’STONE »
間違いなく私の方がずれている。
「パクる」という言葉の用法についてである。
これは私の育って来たごくローカルな環境と密接に関係したかなり特殊と言えることかもしれないが、話や絵作り、演出に興味のある人に多少参考になるかもしれないことなので記してみたい。
まず「パクる」というのは世間一般でいうほど狭義でも否定的ではなく、もっと広義で肯定的意味を積極的に含んだものだと刷り込まれてきた。
いつどこで刷り込まれたかというと、四半世紀前くらい、私が20代前半で、大友(克洋)さんや白山(宣之)さんという「師匠」によってである。
この界隈の会話において「パクる」は日常語といってよく、良い意味でも悪い意味でも区別なく使われていた。もし区別というか使い分けがあるとすれば、「パクリ方が上手いか下手か」という面にあったろう。
たとえば私が「今度、これこれこんなネタでこんな話を漫画の短篇で描こうと思って…」なんて話しをすると、当事の私から見ると(現在もだろうが)山のような既存の映画や漫画の知識を動員してもらい、得てしてこういうようなリアクションが返ってくる。
「ああ、なるほどね…何かアレみたいだけどな」
アレとは映画や漫画の具体的タイトルだったりする。
そして私はだいたいアレを見たこともなく、アレについて教えてもらうと、なるほど私の足りない頭で考えたものよりはるかに上手くできている訳だ。
「パクる元も見てねぇんじゃしょうがねぇよ」といった次第なのである。
良い言葉を選べば「引き出しとその中味をもっともっと増やせよ」ということだが、そこはやや偽悪を気取ってパクリというわけだ。
単純な例をあげれば、たとえば「あるミッションを遂行するために仲間を集める」という枠組みを持った話を考えるのなら「七人の侍」などを筆頭に、それぞれ芸や技術を持ったプロフェッショナルを集める映画くらい見ておくものだよな、というようなこと。
というわけで遅ればせながらアレを見て上手いところを学ぶことになる。
何もそのまま真似するわけではない。それはもしかしたら、人物の配置や話の構成かもしれないし、説明の端折り方かも演出の見せ方かも小道具の使い方しれない。
重要なのはある種のパターンを抜き出して応用する、といったようなこと。パターンを抜き出せなければ真似のままで応用にならない。だからパクリ方がうまければ最終的にはパクリにさえ気づかれないものである。本人でさえ忘れていることだって多いにあるくらいだし。
私は大友さんの漫画にそうした「取り入れ方」(=上手なパクリ方)を学んだつもりである。
「ええ!?この短篇の元ってあの映画なの!?」「あ!このシーンの見せ方ってあれから来てるのか!」みたいな。
それは絵の作り方、背景の扱い方、多い登場人物の捌き方、望遠と標準レンズの考え方、どこで切り返すかといった編集的なこともあれば、もちろんストーリーが展開することや構成といった話の根幹にまつわることまで多岐に渡った。
引用される創作物も映画や漫画に限ったものではないし、小説や写真集、音楽や落語であったり、時には実体験であったりと油断することなど出来ないほど幅広く、そしてこちらは情けないほど幅が狭かったのである。痩せっぽちな体験は貧相なものにしか繋がらない。
だから、せめて仕事場や飲み屋で話題に上がった映画や漫画に目を通すようにしていたつもりだ。いま考えると、あの時以上に学ばせてもらう機会なんて後にも先にもなかったように思う。
凡庸なまとめだが、要するにその頃学んだことを要約するとこういうことか。
どんな些細なことでも自分の作ろうとするものの肥しになれば積極的に取り入れる。
さて話は戻って、自分のネタに対してもらったアドバイスを元に考え直し、自分なりに改善したつもりで第二弾を聴いてもらうことになるのだが、事態は得てしてこうなる。
「下手だなぁ!もっと上手くパクればいいのに」
ええ、ええ、そうでしょうとも。
アレンジしたつもりが「タダの猿真似」つまりは「タダのパクリ」過ぎなかったことを指摘されただけのこともあれば、もっと頻繁に経験したのは次のようなこと。
「ああ、なるほどね…そういやコレ見たことある? 」
アレに続いて今度はコレである。
ええ、ええ、そうでしょうとも。
そして私はだいたいコレを見たこともなく、コレについて教えてもらうと、なるほど私の足りない頭で考えたものよりはるかに上手く……。
実際にはアレ、コレどころの数ではない非常に多くの作品を参考に紹介され、ろくに消化出来ないまま、格闘していたように思う。そして終わって見れば自分が何の何に影響を受けたのか、何をパクったのかなんてどーでも良くなっているものだった。
意識出来ていることなんてそう多くないものだろう。私はそう思う方だ。
いくらパクリで何かを作るにしたって、ネタモトが2本や3本で一つの世界観が出来るわけもなく、極端に言えばたくさんのネタモトをどう配合し、どんな鋳型に押し込むかでいくらでも新しい装いの物が出来上がると私は思う。
そんなときにパクリ元の一つ一つにどれほど重要性があるでしょう。どうでもいいと思うだろ、普通。
私は配合の仕方や鋳型、どこにその作り手の独創性があったっていいと思うが、オリジナリティ神話原理主義者はそうじゃないのかもしれない。
私は少なくとも例の映画を一般的な意味でのパクリだなんて考えたこともない。増してや話が似ているなんてつゆほども思わない。ただ、日本のTVスポットの編集やコピーには笑えるだけの要素は十分にあったのではないかと思うくらいだ。
敢えて言えばいくつかのイメージやアイディアが小説や映画の「パプリカ」から触発されてそうな気がする、という程度の話である。
誤解や勘違いは別にけっこうだが、このことで役立つ「パクリの効用」が忘れられるのは勿体ないと思った古い世代の懐旧譚であった。
しかしこの程度でもiPadで長文を打つのはけっこう難しいもんだな。
又名:潜行凶间(港) / 全面启动(台) / 奠基 / 心灵犯案 / 记忆迷阵 / 记忆魔方
上映日期:2010-09-01(中国大陆) / 2020-08-28(中国大陆重映) / 2010-07-16(美国)片长:148分钟
主演:莱昂纳多·迪卡普里奥 约瑟夫·高登-莱维特 艾利奥特·佩吉
导演:克里斯托弗·诺兰 编剧:克里斯托弗·诺兰 Christopher Nolan